課題レポートがエッセイ調になってしまう者たちへ

2024年10月07日

~学術論文における「チーズケーキアクティビティ」~

 チーズケーキアクティビティのように、レポートを書いている最中にふとしたことで文学的な表現に走ってしまう現象の発露は、レポートがエッセイになってしまう人たちにとっては珍しいことではない。

 さとうさんは、「ミヤコさんの留学レポートみたいなことって我々よくやるんですよ。なぜなら大好きだから。」と語り、「チーズケーキアクティビティ」が各々の中でも頻繁に発生することを示唆した。

 

さとう

ここで、「学術論文とはどういうものか」という観点から引用します。

 

【『学術論文の技法 新訂版』(2005), p10より一部抜粋】

 学術論文とは、自分の研究の結果を論理的な形で表現するものであります。〔…〕学生の書いたものを見ると、論理的というよりはむしろ感情的なものがあります。

たとえば、抒情詩とか文学のように自分の感情を生のまま表現しようとする論文が非常に多いのであります。

(斉藤孝, 西岡達裕 著『学術論文の技法. 新訂版』日本エディタースクール出版部, 2005)

 

なかたに

わーー耳が痛い………笑

 

【同, p29より一部抜粋】

 よく、せいぜい五十枚程度でまとまるような論述を何百枚も費やして書く人がいます。〔…〕八頭一身八尾の八岐大蛇のように、いろいろな問題といろいろな主張がからみ合ったまま投げ出され、いたずらに読者を当惑させるだけです。〔…〕

 このような八岐大蛇のような論文になるのは、自分が調べたこと、知ったことのすべてを一つの論文に盛り込もうとするからです。

(同)

 

このように、学術論文とエッセイの違いは、論理的な構成と感情的な表現にあるようだ。

さとうさんは、学術論文は論文の中でしか見ない決まりごとがあることから、「専用ソフト」のようだと表現した。

 

さとう
引用の示し方一つ一つもいちいちカルチャーショックだし、ずっと違和感なんですよ。

そう考えると結局、エッセイになっちゃわないためには、やっぱりインプットしかないって気がする。論文を書きたいなら論文のノリを身体に叩き込むべき。「センスとはインプットである」っていう、そんな話。

 

なかたに

今回、やっぱりみんなエッセイになるんだなって、ちょっと安心したと同時に、いい加減ちゃんと論文のセンスを磨かなきゃなって思いました。

わたしもソフトウェアをインストールしたいです。でも、書き進めてると絶対どっかで自分の手癖みたいなものが出てきてしまう。いつも気づいたらひょっこり暴走してるんですよね。

 

さとう

わかるよ。〈ゾーン〉って感じ。

あと、言い忘れてたけどこの記事の読者への最大のエクスキューズは「こんなレポートでも単位が取れる」とは一言も言ってません! 評価が良かった悪かったも言いません。 だからご了承ください。

しかもこの企画、スピーカーが全員もれなく当事者だから、客観的な解決はまず望めないんですよ。ただ「ねーできないよねー」って言い合うだけ。

 

なかなに
そうですね。 「なってしまう」って言ってるんだから。

 

 

ボーナスステージも中には存在する

 この会合で話し合われたことから明らかなように、学術論文を書くことや論文の厳格な形式や規則は、エッセイ調に慣れ親しんでいる人たちにとって、まるで新しい言語を学ぶようなものだ。

 しかし、そんな学術論文の中には、学術論文がエッセイになってしまう者たちにとって、楽しみながら取り組める課題も存在するのだ。

 

さとう

エッセイやポエムのような記述課題、つまり学術論文がエッセイになってしまう者たちにとっての「ボーナスステージ」もあるんだよね。

 

なかたに

ありますね、『イラストを見てストーリーを考える』とか。

「未来の自分を想像して書いてください」っていうほぼエッセイみたいな課題とかありましたよ。

 

【なかたにさんの「2050年の未来社会と自分の物語」のレポート】

あの日、占い師に言われたことは本当だったんだなと、今になって思う。私は結局50歳を過ぎても、自分の夢を追っかけている人間になっていた。生活に余裕があるわけではないが、好きなことができている現状に満足している。

 

なかたに
これ【占い師に言われた】とか書いてますけど、わたし自身は別に占い師に会ってないんです。虚言なんですよ。

 

さとう

架空の占い師ね。おもろいなあ。

 

なかたに
しかもこれには伏線があって、授業の参考書に「未来を象徴するもの=〈水晶玉〉〈ロボット〉〈空飛ぶ車〉」という要素があったんですよ。その中の水晶玉へのオマージュとして、占い師を登場させました。
もしかしたら先生は気付かないかもしれないけど、わたしの自己満足で笑

 

 

 

この会合を通じて浮かび上がったのは、学術レポートがエッセイ調になってしまう者たちにとってレポートは単なる成績評価のためのものではなく、読者である先生とのコミュニケーションツールでもあるということだ。

さとうさんは「やっぱり我々にとってレポートは、成績評価の云々以上に『読者』とのコミュニケーションが第一。先生に面白がってもらえるかどうか。」と強調し、なかたにさんも「期待しちゃいますよね。先生はどんな顔して読むんだろう?って。」と、その思いに同意していた。

 


社会学部2年  ミヤコ  
人文学部4年なかたに
社会学部4年  さとう  

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