学生&卒業生インタビュー第14弾『小説家・三上 延さん』
記念すべき2017年一発目の学生&卒業生インタビューは、編集部がかねてから取材したい!と考えていた武蔵大学卒業生、小説家の三上延先生です。代表作『ビブリア古書堂の事件手帖』で知られる三上先生。多忙の中、快く取材を引き受けて下さいました。小説家としてのお話はもちろん、20年前の武蔵大学のお話も必見です!
三上 延(みかみ えん)
1996年 武蔵大学人文学部社会学科卒業 元文芸部所属。
大学卒業後、中古レコード店や、古書店勤務を経て、2002年にアスキー・メディアワークスより、『ダーク・バイオレッツ』で小説家デビューをする。
2011年 古書ミステリー『ビブリア古書堂の事件手帖』が人気作になり、2013年フジテレビ系で剛力彩芽さん主演で実写化。
2015年 光文社から『江ノ島写真館』を発売。
現在まで30以上の作品を著作している。
『ビブリア古書堂の事件手帖』特集ページ(外部サイト)
小説家までの道のり |
――まず、小説家になりたいと考えはじめたのはいつ頃ですか。
高校生ぐらいです。高校で文芸部に入って、本格的に書き始めました。文集を作って外部の人に見せたときに、ちょっと評判が良くて面白いと言ってもらえたので、思い上がって、「自分は小説家になるものであろう」とその頃は完全にそう思っていました。もう俺は最強だ!みたいな気持ちでいたのですが、全然違いましたね(笑)
ちなみに、当時なりたいと思っていた小説家と今は全然違いますね。
――では、高校時代思い描いていた小説家とは、どのようなイメージだったのでしょうか。
当時読んでいた本は純文学が非常に多かったので、芥川賞を取るようなそういう作家になるイメージでした。純文学作家、それこそ『先生』みたいな。実際はライトノベル作家としてデビューしたのですが。
――当時(高校時代)はどのような純文学を読まれていましたか。
ドストエフスキーとかトルストイとか、漱石とか芥川とか。ある程度高校生が背伸びして読むような感じのものは大体読んでいました。
好きなジャンルだと、当時からホラーが好きでした。カフカとか、村上春樹とか、日常ではありえないことが普通に起こるような世界観も好きでした。
日常の疑問を、社会学で明らかに |
――武蔵大学に入学されたきっかけは何でしたか。
得意科目だった『数学受験が可能な大学』で、まず、引っかかったんですね。
あと、社会学に興味があったので、社会学が学べるという点で、武蔵大学を選びました。
――社会学に興味をもったきっかけは何でしたか。
あの頃は、マスメディアが人間の心理にどう影響を与えるかといったメディア論の話に興味がありました。
当時、漫画やゲーム、ホラー映画などを見過ぎると、子どもは犯罪を犯すという話でマスコミが盛り上がっていたのですが、それは本当なのかという疑問がずっと自分の中にあったんです。
ちょうど高校生の頃に、いわゆる宮崎勤事件が起こりました。それで、ホラー映画の放映が中止になったりしていました。僕はその頃ホラー映画を結構見ていたので、「おかしいな、全然関係ないじゃないか」と思いました。なんでこういうことが起こるのだろうかと、そこから興味を持ちました。
――まさしく現在のメディア社会学科で取り扱う内容ですね!
学んで、遊んで。武蔵大学での学生生活 |
――大学生活について、印象に残っている授業や先生はいらっしゃいますか。
やっぱりゼミにはよく行っていました。当時いらっしゃった西原和久先生という理論社会学の先生の、非常に厳しくて有名なゼミに入りました。卒業論文の内容は『有害コミック規制』ですね。まさに入学時の興味の赴くままに、2年間かけて取り組みました。
――では、学生時代は真面目な学生という感じでしたか。
いや、全然ですね(笑)自分の興味あることしかやる気がなかったので、ゼミ以外は一切真面目にやらなかったです。
大学でも文芸部に所属していました。
当時学生会館(現・10号館)というものがありまして、いまも部室棟はあるんですが、実態は全然違います。学生運動の影響から、学生が勝手に占拠している時代が長年続いていて、学生が自治管理していました。警備の人は全く入らない状態です。だから、江古田で飲んでいて「あ、終電なくなった」っていうと、みんな学生会館に泊まっていました。半分大学に住んでいた状態でしたね。
当時のお店は大分つぶれてしまいましたが、『お志どり』さんは一次会でよく使っていました。夜しか会わない、名も知らぬ友達もいました。「今日泊まるの?」「そうなんだよ」「一杯飲む?」――『こいつ誰だろう。確か上の階の部活の人だろう……』とか思いながら、夜飲んだりもしていました。
当時の白雉祭(学園祭)は、オールナイトでした。毎晩お酒を飲んで、1週間くらい大学に泊まりましたね(笑)
――今では絶対できないですね(笑)文芸部の活動も熱心に取り組まれていましたか。
大学生活での僕にとってのメインは、文芸部だったんじゃないかな。卒論と、お酒と、文芸部。
人数が多かったので部内でもテンションの差はあったのですが、僕はテンションが高い方で、お互いの小説を「ここはつまらん」「ここはダメ」とか悪口を言い合っていました(笑)
いま武蔵大学で、クリエイティブ・ライティングの授業を教えている三澤講師が部長で、僕が副部長。学生時代のお互いのことなら何でも知っているし、卒業して20年経った今でも交流がありますよ。
――大学卒業後の進路については、どのように考えていましたか?
「小説家になります」って両親に言ってしまいました。なろうと思って、なれるものでもないんですけど(笑)
一応就活もちょっとだけしたのですが、本気でない限り、志望動機を述べるのもやっぱり嘘八百つかなきゃいけないじゃないですか。就活するまで名前も知らなかった企業に、そこまで本気になれなかったのです。
両親は本当に嫌そうな顔をして、それでも最終的には折れて、「28までは好きなことしていいから、それでだめだったら仕事見つけろ」って言われました。
29歳、最後の挑戦 |
それからバイトしつつ賞に応募していたのですが、まったく引っかかりませんでした。自分には才能があるから、自分が書きたいように書けばプロになれるんだという風に思ってました。なれなかったですね。全然なれなかったです。
それで就職すると決めていた28になって、近所の古本屋で働き始めました。順調に1年くらい経って、準社員をそろそろっていう話がきたんです。準社員になったら小説家はもう無理だなって、その時改めて考えました。半分諦めていたんですけど、『もう一回くらいやってもいいんじゃないか。ちゃんと期限を決めて1年間書いてみたものがどこでもデビューできなかったら、もう諦めよう』と決めました。
その時に考えたのが、今までなんでダメだったのかということ。まず、それまでの数年で思い知らされたのが、自分は天才ではないということです。天才じゃないけど、小説家になるにはどうしたらいいかっていったら、自分の長所の部分をきちんと分析して、それでできることを見つけないとダメだ、考えないとダメなんだって思いました。
――先生の考える、長所というのは何だったのですか。
20代の後半まできていて、貯めこんだ知識は結構なものになっていたんですよ。映画、小説、漫画、ゲーム、一通り娯楽は全部楽しんでいたのに、全く小説づくりに生かしていなかった。古本屋に入ってから美少女ゲームとかもやるようになっていたので、そういうのも含めて、流行していた中高生向けのライトノベルを書いたらどうかという結論に至りました。それも、他の人が書いていないものを書いたほうがいいだろうと思って……ホラーを書いてみたんです。
結局賞は取れなかったんですが、読んだ担当さんが気に入ってくれて、運よくデビューできました。でも、デビューする前より、した後の方がずっと大変でした。
ライトノベル作家に。そして、大ヒット作『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズ |
――デビューした後の方が大変というのは、どういう点ですか。
何よりプロである以上は、数字(売上げ)を出さないといけないんですよ。そうすると、自分は「これでいいだろう」と思っていても、色んな形で制限されるわけです。企画が通らなかったりとか。制約が強くなる中で、いかに自分の持ち味で戦っていくかという点です。
スケジュールもタイトでした。多い年で年に5冊くらい書いたんじゃないですかね。ビブリアを書く前までは、平均で年に3冊は出していました。
――『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズは、実写ドラマ化されるなど、大ヒット作になりましたね。
ビブリアは売れると思っていなかったですね。
だいたい企画出すときって、僕は2本出すことが多くて。そうすると、両方ボツになっても、どっちが良かったのかと議論になるんです。どっちがよりまともか、どっちがよりダメだったのかっていうので、比較対象があるので、話がはやく進むんですよ。メインはSFもので、ビブリアは2、3時間で作った抑えでした。「こっちのほうが圧倒的におもしろいですよ」って言われて、そんなもんかあ……ってなりました(笑)
――小説を執筆される中で苦労された点はありますか。
ビブリアの場合、テーマが古書なのでプロットを作るよりも、実際の資料にあたるのがすごく大変なんです。
下手したら文学部の学生が、卒論書けるぐらいの資料は毎回読んでますね。愛読家は全国にいるので、間違ったことを書いてしまうとすぐ指摘を頂いてしまいます。
2017年2月発売予定の完結編にシェークスピアを扱ったのですが、資料が原文ばかりなので、専門家が読むような資料を海外のAmazonとかで買って読みました。
古書の業者の方とか、本を研究されている方に直接取材しに行くこともありました。
――『ビブリア古書堂の事件手帖』では古書店の店長である、ヒロインの栞子さんが印象的でしたが、キャラクター作りはどのようにされていましたか。
あれは、「古書」っていうテーマがまずあって、それをどうやってエンターテイメントにするのかという過程で出来たキャラクターですね。それまでも、古書を題材にしたミステリーはありましたが、古書のマニア向けの小説なんです。でも自分の小説を読む人は絶対古書マニアじゃない確信がありました。20代前半ぐらいの、男性が手に取るんじゃないかなと思ったので、そういう人たちがグッとくるようなキャラクターは何だと考え、そしたらまあ、年上の、本好きなお姉さんだろうなと。
――2017年の2月に完結編が発売されるそうですが、その後の作品についても考えていらっしゃいますか。
そうですね……ちょっと前の時代の話を書いてみたいなと思います。
それの準備ももうしてるんですけど、昭和の時代の話を書くんじゃないかなと思いますね。いま取材しているところです。
武蔵大学の後輩へ |
――最後に、武蔵大学の後輩にメッセージをお願いします!
若い頃って、何をしなきゃいけないかとか、就活しなきゃいけないとか、どうしても世間からのプレッシャーって大きいし、そういうものだろうと思う気持ちって分かるんですけど、意外と正しいルートから外れた道も結構あるんです。僕はずっと隙間を通りながら生きてきました。でも、その足を引っ張る人って結構いる。そんなのはおかしいとか、やり直しがきかなくなるとか。それは正論なんですよ。間違ってはいないのだけど、正しい道って一つじゃないんで、意外と肩の力を抜いてもなんとかなると思います。
経験則なんですけど、人生は2回まで逃げて大丈夫ですね。僕は就活から逃げたのと、小説書くって言ってなかなか書けなかったんです。ただ逃げるたびに選択肢が狭くなっていきます。自分の中でどこかで歯止めをかけることも、必要なのだと思います。
――三上先生、お忙しい中本当にありがとうございました!
緊張のなか「インタビューって難しいですよね。僕もたまに行くんですが」という先生のお気遣いから始まった、今回の取材。私の中で『小説家』といえば、ひたすらパソコンと向かい合っているイメージだったので、先生が実際に多方面へ取材に訪れているというお話を聞いて驚きました。残念ながら今回の記事では載せられなかった面白いお話も沢山聞かせていただきました。
小説づくりにあたっては、自分の好きなものを書くだけではなくて、自分の強み、今の流行り、読者の好み、物語の方向性など、様々な要素を取り込み、計算して小説を書いていく姿が伺えました。自分は『天才』ではない、とおっしゃった先生の『隙間』を器用に抜けていくスタイルには、学ぶところが多々あると思います。
3年生はこれから就活シーズンを迎えます。煮詰まった時には、肩の力を抜いて『隙間』を探してみてはいかがでしょうか。
(3年浜野 2年北村)