【丸橋珠樹 教授】武蔵大学にいる理系の先生とは?

 

丸橋 珠樹(まるはし たまき)教授 プロフィール

1952年 愛媛県松山市生まれ

1975年 京都大学理学部卒業

1982年 京都大学理学研究博士課程修了

1982年 日本学術振興会奨励研究員

1984年 名古屋学院大学非常勤講師

1986年 武蔵大学人文学部助教授

1996年 武蔵大学人文学部教授


 

【幼少期のお話】

はじめに、丸橋教授の生まれ育った環境についてお聞きします。

愛媛県松山市出身とのことですが、そこでは、どのような幼少期を過ごされましたか。

幼少期は、思い出しません(笑)

当時は高度経済成長期で、自然が色々と消えていく環境だったから。

私は昭和27年生まれなので、まだ戦争の影響を感じることがあったね。

当時、周囲には戦争で足を無くした大人もいました。

なるほど・・・日本が大きく動いていた時代といえますね。

松山という土地についてですが、四国だけあって、お遍路は盛んでしたか。

盛んだったね。

お遍路さんが民家を回って、食事などを世話してもらうことはよくあった。

道ゆく人にお布施をもらいながら、お遍路を続ける人もいて。

「みんなの助けの中で生きていく」という感覚を身近に感じた。

「門付(かどづけ)」って知ってる?

※「大道芸、巷間 (こうかん) 芸能の一つ。人家の門口に立って芸能を見せ、報酬を受ける芸能と芸能者の総称」

(引用元:ジャパンナレッジ:日本大百科全書(ニッポニカ)『門付』)

そんな人たちもいたね。

そういった環境が、先生の考え方に影響を与えたのでしょうか。

世の中には色々な人がいて、色々なことが起きているんだなと思ったね。

祭りの話もしようかな。

松山は祭りが盛んでね。地元の人は当然、参加するんだけども。

松山は喧嘩神輿があって。よく怪我人が出た。

かなり激しいですね!

今となっては日本中、どこの祭りも安全でしょう?

当時、子供ながらも大人たちの祭りにかける熱を感じたね。

あと、子供は地域に大切にしてもらったなあ。

家庭の力と、地域の持つ力を身近に感じていたということですね。

 


 

【学生時代のお話】

丸橋教授の学生時代に、話を移したいと思います。

どのような学生生活でしたか。

当時は学生運動が盛んでね。

安田講堂事件があって、地方にも学生運動のうねりが来ていた。

私の通っていた高校でも学生運動があって、6人が退学させられたね。

学生運動って、もはや歴史の教科書に載っている内容ですよね。

ちょっと実感が湧かないです・・・

地元の高校を卒業後、京都大学に進学されたそうですが、大学ではどのようなことをされていましたか。

学生運動が盛り上がってたね。

大学でもストライキがあって、〝戦い〟が続いてたから授業もあんまりなかった。

その時は、ストライキしてない学部の講義を受けたり。

で、そのうちその学部もストライキ、みたいな状態。

僕たちの時代とは別の意味で、大学の正常化にはほど遠かったわけですね。

教室に行くと、内ゲバ(内部闘争)後で血溜まりが・・・なんてのもあったし。

そ、壮絶・・・!

そのような体験をされて、何か感じたことはありましたか。

「自分たちは、大きな歴史のうねりの一員なんだ」と思ったね。

戦後からの、日本の大きな動きを感じますね。

でも、それは君たちにとって無縁ではないよ。

歴史のうねりは無くなっていくわけではなく、移り変わっていくものだから。

「自分たちには何も来ない」とは思わない方がいい。

ハッとさせられる言葉です。

歴史のうねりを見極めるためにも、歴史を学ぶことは大切ですね。

今は、知識を拾い集め過ぎている人が多い印象があるね。

断片化してしまった情報は、知識であって、記憶ではない。

たしかに、どこかで見聞きした断片的な情報を集めている人も(自分を含め)多い気がします。

そうだね。

「どこかで見た」というのは、知識でも記憶でもない。

実際に人に聞くことで、記憶に変わる。でも、今の人にはそういったことが少なすぎるのが問題だね。

非対面が当たり前になった時代ですからね・・・

フィールドワークを通じて、実際に様々な人と会ってみることは大切ですね。

その通り。

若い人が安心して行ける場所(フィールドワーク先)を作るのが、教育者の務めだと思うね。

 

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コンゴでの衝撃体験。そして「マヨネーズの武蔵」(?

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